食べることができ、それなりの生活ができるようになると、
もっと豊かな人生を生きるための「意味」を探し出す人がいる。
「意味」とは社会への貢献、もっと言えば微力でも生命進化の流れる方向に向かって貢献することだ。
この「意味」を共有する組織は楽しく美しく強い。
一人一人がこの「意味」を感じながら夫々の役割を果たしている・・・
TJMはそういう組織を目指す。
とは言えTJMがなくても代替品を供給する会社は幾らでもある。
現在の日本社会はそれくらい競争に明け暮れている。
そう思えば自分の会社がなければ大変というのも少々おこがましい気がする。
仕事は食べられれば結構、楽しんでできれば最高という気分も一方で真実である。
要するに時に真面目に、時にリラックスして人生を楽しんでしまうことが大事である。
そしてそのように考えられる人は周りから見て明らかな失敗をしたと思われる状況に陥っても
その状況を案外清々しく感じ、目の前の「一日、一日」を大切に送ることで新たな
スタートを切るのではないだろうか。
会社は誰のためにあるのか。
株主のため、顧客のためと考える会社も多いが、TJMではやはりそこで人生をおくる社員のために
あると考えたい。
ただし、「会社が社員のためにある」つまり社員が主人公でいられるためには次の条件を満たさなければならない。
株主、顧客、協力会社、銀行など会社を取り巻く人々や環境と対話をし、真剣勝負をしながら会社を成功に導くことである。
周囲はそう簡単に成功を許さない。
その葛藤の中で社員は鍛えられ成長する。理念だけで人は本当の成長をすることはできない。
ひとつでも多くの社員の成長物語を作り出しながら社会に貢献してゆくことが
TJMの理想とするところである。
どんどん加速する時代に、中途採用、契約社員、アウトソースに比重を置き業容の拡大を図らざるを得ない企業が増えている。
時にそのように対処するべき時期もある。しかし、企業がひとつの生き物として時代時代に果たすべき役割を知り成長してゆくとしたら、そこに働く人が成長してゆかなければならない。
しかるべき時間をかけて、仕事を通して人を育てるという意思をはっきりと持つ企業でありたい。
「品質」はTJM創業以来最も好まれ大事にされている言葉だ。
創業者田島庄五郎は豪胆な性格で「品質で気に入らないものは躊躇なく工場の前のどぶに投げ込んで捨てた」と記録されている。
現在では不法投棄で問題になるがいずれにしても気持ちは伝わってくる。
品質というものは企業活動の全般、全社員の行動・態度・思考にかかってくる総合的クオリティーの事であると思うが、
特に商品において言われる事が多い。
TJMでは「ソリッド感」「期待重量」という言葉が語られるが、ガタガタせずしっくりしているとか、見た感じもどっしり感があり
手にした時に見た目よりもわずかに重い感じがするというような五感的な事が開発時に要求される。
自動車のドアを閉めた時のどっしりしたドンという音・・・これは正に品質感であると思う。
品質と価額の関係は様々であるがどうしても高い品質を求めてしまうのがTJMの歴史の中で育てられ変えることのできない「血」である。
花に早咲きと遅咲きがあるように企業にも早咲きと遅咲きがある。
早く名前が売れてしまうのではなく、商品を磨き続け商品自体に本来求められるものを追求しているうちにいつか知られてくる
というさまが理想である。
派手さはない、目を惹く尖ったものでもない、しかし使っているうちに何とはなく幸福感が
漂ってくる瞬間がある・・・そのような商品作りを私達は目指したい。
今までTJMでは子会社を設立する時にできるだけ小さな資本金で立ち上げようとしてきた。
子会社が軌道に乗って黒字化するまでにはかなりの資金が必要になるが、TJMの米国法人立ち上げの際には
小さな資本金を売掛金を増やすことでカバーした。徐々に軌道に乗り税引き後利益から生まれる資金で売掛金を
正常サイトに戻そうとしても中々実現しない。
これを本社のB/Sで見ると売掛金という目立ちにくい形で米国子会社が軌道に乗るまでの
必要資金が隠されており財務は不健全になる。
やはり当初見込んだ赤字は資本金でまかなうのが健全であり、売掛金が最も悪く次が貸し付け金という順番だろう。
必要な資金は一見スマートでないように見えても分かりやすく透明な形で処理するべきだ。
返ってこないと困る資金で投資を行うことは危険であり、戻ってこない可能性がかなり高い、
それ以上に更に資金の追加投入さえありうると覚悟してかかるのが賢明である。
このように考えて財務が圧迫される恐れがある場合は、全社を挙げての倹約に務めるべきである。
過去、TJMでは設備投資・新商品投資は神聖なものと考え、ほぼ無条件で実行してきた。
しかし、これがいくら利益を上げても財務状況を悪化させるという事態を招いてしまった。
長い時間の中で金融状況は色々と変化し、企業の存亡が日常では全く問題のない企業にさえ押し迫ることもあり、
またその様な時が資金さえあれば様々な投資チャンスに溢れていることも多い。
企業第一の課題である「存続」のためにも、
また、他が保守的になる時に積極的に攻めに打って出るためにも
財務状態の健全化を平時頭に刻み込んでおくことは重要である。
日本人は周りの人に対する気遣いが強く、周りの人を傷つけたくないばかりにはっきりと物を
言わないことがあるとよく言う。
その日本人が集まってできたのがTJMである。
だからこそオープンポリシーをTJMスタイルと して掲げたい。
このオープンポリシーの第一歩は言いにくいことほど先送りせず、ずけずけ言ってはばからない。
仲間に嫌なことを言うのは可哀相だからと、今日言うべきことを明日に延ばしてしまえば、かえってグループ全体を
駄目にすることにつながる。
延ばせば延ばすほど症状は悪化するし、挙句の果て、あまりに症状が悪化してしまって今度は死を宣告するようで
怖くて何も言えなくなってしまうものなのだ。
一日延ばしに延ばしていたら結果良かったということも時にあるが、それは認めない。
結果でなく考え方に重きを置く。
昨今企業絡みでいろいろな事件が報道されるが、それらに接して感じるのは全部が全部、
悪意から発した事件とは言えそうにないことである。
なかには仲間に嫌なことを告げるのは明日にしようという優しさから生じてしまった事件もあるように思えてならない。
悪は誰から見ても悪なのでみんな警戒するが、本当の敵は善意からくる曖昧さなのかもしれない。
相手に好かれようと迎合すべきではないが、常に相手の立場に立ってその人がどのように 感じているか、考えているか、
はっきりつかもうと努力すべきである。このためには平素から ともかく人の話をよく聞く習慣が何より効果的である。
まず、自分の話をよく聞いてくれる相手には誰でも好感を持つものだ。人の話をよく聞くと円滑な人間関係ができてくる。
これが仕事にとって、豊かな生活にとって重要である。
さらに、よく聞くとその人が重要なことを言っている場合に
それをしっかり学ぶことができる。最後に、よく聞くことによって話し手が言っていることが正しいか
間違っているかということではなく、話し手がどのような考え方を持つ人なのかを理解するというもっとも重要な
果実も得ることができるのである。
飼い猫になるか野良猫になるか、犬になるのか豚になるのか、昆虫かはたまた植物になるのか・・・
もし選べるとしたらこれは非常に重要な選択課題だ。
人間はこれを選ぶことはできないが、企業はかなり選べるのだ。
1909年に創業したTJMデザインは直尺・巻尺等測定機器という戦場から1975年に建築工具という戦場に設定を変更した。
主力商品である巻尺が5つの販路にまたがっていることを嫌っての戦場替えであった。
技術的な可能性を追求してできた商品を売れる所なら何処にでも売ってゆくという技術優先の考え方から、
主ユーザーである建築職人が使うものを開発してゆくという顧客設定優先の考え方に切り替えたのである。
使い方を調べて商品を開発改良する時も、販売店・代理店を訪問する時も同じ所に繰り返し行けるので、
効率だけでなく経験や知名度がどんどん上がってくる。
その代償として技術は刃物・袋物等々全く未経験のジャンルに挑戦してゆかなければならなかった。
またこの戦場には電動工具・塗装接着剤にしか大型企業がおらず、設定した建築用ハンドツールのライバルが
それほど強力でないという長所があった。
この選択はある意味で正しく、ハンドツールのトップメーカーに踊り出ることに成功、
かつ高利益体質まで作り上げることができた。
しかし一方で大手不在の小さな戦場を選んだ見返りとして売上規模不十分、絶えず次の戦場を探さなければ
長が続かないという問題を抱えることにもなった。
30年前の戦場設定が現在のTJMデザインの形の大半を決めてしまったのである。
事業規模も収益性も最初の戦場設定が重要である。
数字計画を持つと計画と結果の差異分析を行う。
数字計画は景気やライバルの行動を読みきることが不可能であるからまず正しいということがない。
従って深く考えずに計画と結果の差異分析を行うことは時間の無駄にとどまらず害にさえなる。
数字の前にまず大切なのは「事態をこのようにもってゆきたい」というストーリーである。
ストーリーについて徹底的に議論し、結果は数字ではなくストーリーがどう展開したのかについて検証するべきである。
ビジネスの世界では数字で表現できないものが成功と言えるのかどうか疑わしいという側面がある。
確かに数字がまったくない世界は情緒に流れてしまう恐れがある。
まずストーリーがあり、それが思ったように進んでいるかチェックするために局面局面に数字計画を織り込んでゆく。
数字ではなくあくまでストーリーが先である。
何処に価額設定をするかということは重要である。
顧客のためにもっともっと安く提供したいという使命感は立派である。一方もっと便利な商品、もっと魅力ある商品を
提供したいというのも立派な考えである。
TJMでは後者を取る。もっともっと安くという考え方で十分な利益を生んで
ゆくことは非常に難しいというのが経験から学んだことである。
模倣は利益を生まない。先発と同じものを作ってちょっと安く売る・・・この考え方が既に敗北である。
ユーザーの立場に立って見るともの真似を買うなら品質が同じとしても20%くらいは安くないと魅力を感じない。
流通も似たような後発商品をわざわざ売り込むのだから10%くらいは余計に儲けたい。
となると30%も安くしないと売れない。30%も安くしてまだ十分な利益があるというならこれはもう模倣ではなく
生産方法の革新と言える。
ユーザーは値段が安いほうが良いと誰もが考えているように見えるが、そのくせどんなジャンルでもトップ企業の価額は大体最も高い。
つまりユーザーは値段よりも品質や付加価値、鮮度を求めているというのが事実だろう。
価額というのは一種哲学である。しっかりと努力した原価に適正な利幅を乗せて堂々と売り出す。
顧客やライバルの反応を見ながらびくびくと価額を下げることもせず、また最初は儲からなくても量が出たら
儲かるという皮算用もせず、十分に吟味された価額を貫くのである。
これほど商品の多様化が進み顧客が飽きっぽくなっている現代に同一商品が大量に出てコストが大幅に下がってくる、
更にそれが長く続くということは滅多に起こらない。
商品がうまく売れると悲しいかな必ずと言ってよいほど模倣品が安く出てくる。模倣しても
利益は上がらないのだが、当面の限界利益を追ってか必ず出てくる。これをそのままにしておけば徐々に食われてくる。
しかし全く新しい商品の市場形成期の場合を除いて、価額を下げて対抗してはいけない。
相次ぐ模倣品で価額がスパイラルに下がってくると流通も顧客も嫌気がさしてくる。
模倣者も利益が上がらないから新モデルへの更新がしにくい。
そのころあいを見計らってもっと魅力のある新しい商品を繰り出すのである。本気で考えれば必ず魅力的な切り口は見つかる・・・
と言うのも経験則である。
適正価額を罪悪と考えず、遠慮せず、ライバルにびくびくせず、堂々と設定してこれを貫く。
そして商品をいつもみずみずしく保つ。これが企業の格調であり利益を上げるための非常に重要なコツである。
ものが買われる瞬間をひたすら見つめる。
そこに最も効果的に影響を与えられる方法を、最短距離で考える。
つまり最終購買者が買う瞬間から見て逆算的に販売経路を構築してゆく。
セールスは人間なので目の前にいる得意先が重要になり、彼らを説得したり、気に入られる努力をしようとするのが自然だ。
しかしその考え方は事を間違えさせる。
人間には「変化」を苦手とし、一度落ち着くとその状態を保とうとする一般的な傾向があると思う。
TJMでも時々は業界初というものが出るが、大概は改善であり先住者がいる。
この状態を「変化」させなければならない訳だが、この時点に時間やエネルギー、資金を集中し、流れを変える事が出来たと思ったら
集中を解いて巡行モードに切り替える様にしている。つまり社会の一般的な性格を利用して緩急を付け効率化を図るのである。
例えばこんな事がある。
ツールでは新製品をなるべく一つずつでなく「群開発」と称してまとめて開発し発売している。
これらをまとめポップなどの説明を施した分かり易く目立つ売り場を作る。そしていよいよセールスが販売店の
良い場所に置いてもらうのだが、これが難しい。必ず先住者があるのである。入れ替え候補の先住商品が一つ一つ売り切れると
補充せずその場所を空けておいてもらい、満を持してタジマ新製品の売り場に変えてもらう・・・そんな都合の良い事は絶対に
無理である。「先住商品を脇にどけて良い場所をください」というのもよく考えてみれば実に身勝手である。
そこで最後の手段は「売り場を買う」のである。
良い売り場ほど売り場取り競争は激しいから場所を確保するため果敢に投資する事は理に適っている。
より良い場所を頂こうと思うなら販売店がより持て余している製品と交換すべきである。その後商品が売れるかどうかは
開発担当者の責任であり、セールスはまずは良い売り場を確保するためにエネルギーと資金を集中して時間をセーブしつつ
目標を達成する。
この緩急を付けたアクションが重要な営業戦略の一つになっている。
「顧客は良き批評家ではあるが、雄弁な提案家ではない」TJMでは数多くのものづくりの失敗経験の中で最初から
完全はないと考えるようになった。顧客に実物を使ってもらっての批評を幾度か経て本物ができてくると考えている。
どんなに注意しても失敗が山ほどあることを前提にするので、TJMではものづくりを「小さく場につく」ことから始めるようになった。
もしも顧客が雄弁な提案家であるなら、我々の抱えている問題点をどうやって解決したら良いのかすぐに教えてくれるだろう。
しかし、彼らは決して我々に問題の具体的解決策を提案してはくれない。したくても提案することは非常に困難なのだ。
だからこちらから具体的な提案をしなければならない。すると実に正確な批評をくれる。
多くの顧客との対話を通じ試行錯誤を繰り返しながら少しずつ完全に近づいていく・・・r。
ここで気をつけなければならないのは、決して10人の顧客の意見を足して10で割ってはならないということだ。
一人一人の顧客の意見を虚心坦懐に聞く、そして頭に叩き入れた後に一度忘れる。
すると、いつしか回答が頭の中から
発酵するように浮かびだしてくることがある。「発酵による創造活動」だ。発酵によって生まれた商品は大概本物として
ロングセラーとなっていく。
お風呂に入っている時、散歩している時などにふっと答えが見つかるという事は 誰でも経験する事だ。
そのためには問題に関わる要素を、又は一度出た結論や過程を先ずしっかり「記憶」する必要がある。
より良い答えにたどり着きたいという意思が強ければ頭は自動的に動き出す。
この様に脳内で練り上げることを「思考」というのではないかと思う。
天才でないと中々一発で素晴らしい答えにたどり着く事は出来ない。
しつこく練り上げる必要がある。
考えてみれば当たり前のことだが「思考」のためには「記憶」が条件である。
子供は勉強において記憶の意味が分からなくても記憶に励むべきだ。
最初から学問の意味を理解出来る子供はほとんどいないが、この習慣・力は後年に役立つ。
自らの視座から捉えていることが全てと思いがちだが、見る角度や時間軸に対する意識で物事は
全く違って見える。例えば自動車に乗っている場合でも、桜並木をぼんやり眺めている、前方を見つめ高速でドライブしている、
地図を書くためにあらゆる建物を確認している、という3つの場合、当事者に見えてくるものは全く異なっているという具合だ。
よく、私には発想力が欠けていると言う人がいるが優れた発想とは考える視座を色々と変えて見ることで、
これを千変万化させるということが重要と分かっていれば結構発想はこぼれだす。
チェンジチェアーといって顧客の目線で考える、相手の立場に立って考える、ということを常々言うが、これは視座を変えて見るという代表的な事例だ。
このような転換を頻繁に行いながら毎日考えていることが重要である。
志が高いことがとても重要と思うが、これも目線の問題ともいえる。つまり志が高い人は自分や自分の廻りの限られた部分だけでなく、
もっと平和な世の中を作りたい、もっと豊かな社会を作りたい、もっと周囲の人に幸福を感じてもらいたい、
そのために自分はどんな貢献ができるのだろうか・・・等と日頃から考えているのだろうが、このような心持ちから
見た現実社会というものは、それなりの見え方をするものなのだろう。
だから自然と見えた現実に対応した行動を取り、それが素晴らしい結果を生んでいくことが多い。
素晴らしい結果を求めて始めるというよりも、純粋に高い志を持って現実を見て行動することから結果が自然と開けてくるという
感じなのかもしれない。
問題の症状を羅列するまでは良いが、そこからこれらの症状はどんなジャンルに分類されるかを考える。
事実を単純化するための視点を定める事が重要だ。
これは勘により行われるのだが、勘が働くためには到着点を明確に意識しなければならない。
「着眼大局、着手小局」ということわざがある。
計画は大きな視野で大雑把に見て立て、実行は細かな視野で具体的に始めるというような意味だ。
時間軸で言えば計画は長時間軸で捉え、実行は今直ぐ何をという短時間軸で捉えるという感覚だろう。
戦略を作る場合この「着手小局」を実際の行動ととらず、この部分も一度頭の中で行ってみるのが良いと思う。
最初の行動としては、何処に行って何を言うのかと考えると全体計画の緩さや相手目線の欠如などがあぶりだされてくる。
そこでもう一度全体計画を修正、これを頭の中で何回かやっていると計画は徐々に良いものになってくる。
要するに体験量が重要だ。
結果を予想して実行し結果を検証して学べ。
悪い結果を恐れ検討しても実行しない組織は実社会を学習できない。
社会の実際を体験せず考えているだけの組織は口先だけの人間に似て弱く見苦しい。
この社員は能力がありそうだと若手を思い切って抜擢して仕事をさせることが多いが、実際抜擢して仕事をさせてみないと
能力ははっきりしない。2年も経過すると能力ははっきりしてくるし、その間に学習する人材はどんどん育つ。
しかし、2年ほど経過して期待したほどの能力ではなかったとの判断が下されれば、思い切って降格を命ずるべきである。
このとき往々にして、その人物をそのままに、その上に屋上屋を重ねるように上司を配して問題解決を図ろうとすることがあるが、
これは絶対にまずい。コストの問題以外に、命令系統が複雑化し、組織全体が混乱、機能しなくなる。遠慮なくはずして降格するなり、
他部署への異動を命じるべきである。
企業としては果敢に抜擢するが、能力を懸念すれば思い切って降格を命じる。そして降格の命を受けたものは、
これを良い経験としてその後の仕事に励み敗者復活に挑む。降格処分でその人物の評価を固定させるのではなく、
必ず次の機会を与える。企業風土として、これがあたりまえのことであるというものにしたい。
若くして抜擢した人材を何人か降格させた。
彼らは着想が豊かで優秀だと感じたので抜擢したのだが、そのポストでやってみると簡単な事で大きなポカが出たり、
政策に何か現実感がなくしかも補正が鈍いので成果に結びつかなかったり、展開速度が遅くなってしまったりで結果がうまく出ない。
今思うと結果を出している人と比べると表情が違う。
人としての「構え」というようなものがしっかりある人はやはり良い仕事を貫徹するのである。
本物の思考力があるかないか・・・ これは頭で考えるレベルではなく覚醒感、精神によって突き動かされる思考レベルではないかと思う。
ひどい親に育てられた、体育会系運動部でひどく辛い思いをした・・・
成長期に理不尽な思いをすると理屈で物事が動かないということを知り、自分の身は自分で守らないといけないと気づき、
機感のような動物的な能力が育つのではないだろうか。
一方理不尽なことがない理屈がそのまま通用する平和な環境で大切に育った人は伸びやかで素晴らしいが危機意識は弱いことが多い。
結局この危機意識というような精神要素が覚醒感であり、本物の思考力に繋がるのではないかと思う。
降格された若い人材に実は今強い期待感をもって見守っているのだが、若くして抜擢という名誉の後に降格というショックを
受けた彼らが覚醒に至り本物の思考力に至ることを期待するのである。
自分のミスを取り繕うためにミスを部下の責任にしてしまうマネージャーがいるが、
このような基本的な人間性に問題があるマネージャーには能力云々以前に部下がヤル気を無くし、
その部門の業績はなかなか浮上しない。
管理職を評価するには、警備担当・清掃担当・車輌管理担当等の不特定多数の社員と接する機会の多い人に
その評判を聞いてみると良いと言われるが、案外その通りでこれらの担当者に評判の良いマネージャーは部門の業績も良いことが多い。
就任後暫くは問題が発覚しないことも多いが、2年も経過すると概略表に出てくる。
この時に再編の決断が経営幹部にできなければ組織は腐敗していく。
請われて直接取引を開始した大型小売店があったが、直接取引になると値引きしろしか言わない。
値引きに応じない担当者をいたぶるように逆に毎年少しずつ買い入れを減らしてゆき、他のメーカーへの見せしめにさえした。
社内で相談した結果もう取引は止めよう、それどころかこの店には今後一切我が社の商品が並ばないようにしようと
決めた途端に皆元気が出た。
取引を止めてしまうとやはり我が社の商品も必要だったのか、何処か適当な問屋さんを
探し少しずつ買い入れを増やしてきた。
一度勝ち得たものを失いたくないと恐れると戦略のミスを引き起こす。
一時でも売上を減らしたくないと思えば際限のない値引き要求に応じることになり消耗する。
全てを抑えたいという欲望に駆られれば安売りに対抗するという選択をせざるを得ない。
社会から受け取るべき「相応の分」を心得るべきだ。
進んでゆく「意味」を見失って数字を追う亡者に堕ちるなら誇り高く貧乏する権利さえ我々にはあるのだと考えると元気が出た。
トップは鳥瞰的に物事を見、長い時間軸でものを判断する必要がある。
こっちの局面で勝利するためにあっちの局面は負けても構わないとか、2年後の大きな勝利のために今年は負けておこうとかいう
判断はやりにくいがとても重要だ。
しかし一局面的に、または一時的に損をするような決断をする場合には、しても良い損の程度を明確に宣言するべきだ。
また今現在分担して仕事を遂行している社員にはその命令に従うと不利益をこうむることが多々あるからそれを事前に察し調整し、
トップの決定が社員個々に損を与えないようにしておかないと組織はスムーズに動かない。
逆に考えれば部分を担当している社員個々の最善を合計しても企業全体の最善にならないことがあるということであり
これは「合成の誤謬」といわれる。
トップは直面する問題が社員一人一人の意見を聞くべき項目であるのか考えなければならない。
現場が混乱してきて周辺に迷惑がでてきたら、その対策は直属の上司が立てるのではなく
可能な限り上の人がラフな道筋を描くようにしたい。
つまり現場の問題というのはそこだけで起きていることは少なく、部門間の摺合せが狂ってきたために起きる事が多いので、
他部門の事を十分に把握していない組織階層の人では、正しい解決の道筋をつける事ができにくいのだ。
短時間でも良いので可能な限り上の人が参加し、部門間の不整合を解消する道筋を立ててしまえば、
後は直属上司レベルの部門にまたがる努力で問題は解決される可能性が高くなる。
人は親に教えられ、先生に教えられ、友達に学び、本に学び育ってゆく。
しかし同じ親に育てられ、同じ先生に教わった双子の兄弟が全く違う人間に育つことがあるということを思えば
人は教えられ育てられるように見えて実は自分で選んでいるのではないかと思うことがある。
親や先生の教えでも取り入れることと取り入れないことを選ぶ。
付き合う友達を選ぶ、読む本を選ぶ・・・
どんな考え方に共感を覚えるか、何に感動するか・・・
生まれた時から人それぞれの選択基準のようなものは備わっているのではないかとさえ思われる。
これがその人が生まれ持っている個性というものなのだろうか。
人において非常に大事なものはこのそれぞれの選択基準である。
これは企業が育てることのできない領域である。
麦は麦、米は米、小麦を大麦にすることはできなくても小麦を立派に育てる手伝いをすることはできる。
企業が人を育てることはできなくても、育ちやすい環境を作ることはできる。
人の個性を見抜いてできるだけ育ちやすい環境を与えることは企業にとって重要なことではあるが、
育つか育たないかは人それぞれの力によると思う。
完璧な人材が何処かにいて助けに来てくれるという妄想を持つべきではないと遅まきながら思うようになった。
もしいたとしてもその人が今の仕事を投げ捨てて助けに来てくれるはずはない。
そう気が付くと精一杯縁あって周りにいる人を育てるしかないと考えるようになる。
大変な仕事ではあるがこれが非常に重要だ。
人を育てるのに大切な事はやはり計画だてて経験を積ませる事だろう。
そこで世間で使われている色々な制度を導入する事にした。
製造部で始めているが新工場の立ち上げやどこかの工場の問題解決のために他の工場からもプロジェクトスタッフとして
参加して経験を積む。安定した工場では大きな問題が起こらず良い経験を積むのが難しい。
これでは勉強ばかりしていて手術の経験がほとんどない医者のようなものだ。
1年間給与を変えずにマネージャーを任命する。その部署のマネージャーだった人は給与を変えず近隣の部署のスタッフになる。
これでマネージャーというものを体験できその後の心構えは大きく違ってくるし、近隣部署のスタッフになった元マネージャーは
より良いマネージャー像を描ける良い経験になる。
さまざまな部門、地域から5人を集めて一組にし、部門内会議の議事録を見せながら説明してもらう。これにより知らない人に
説明する事の難しさを体験し、意見交換によりトップがどんな考え方をするのかを理解する。
副産物としてはトップが色々な部門内でどのように考えているのかを知る事ができ、参加者は他部門の状況を
知りかつ同士の交友も生まれたりする。
大変ではあるが効果が高いと思う。
また人には誰にも長所と弱点があるから、会社としては欠点を補う機関のようなものがあると良い。例えばTJMでは
大体工場長は技術系の出身で余り人事系には強くない。
これをサポートするために本社ではなくわざわざ4工場共通の人事部長を製造部門内に置きサポートしているという具合だ。
問題が起きにくいと同時に工場長の苦手な領域の教師的存在にもなる。
社内に「考える習慣」を根付けておかないと会社はやがて滅びる。
完成したはずの組織が壊れてしまう経験をいくつもした。
これは一度完成したと思われる組織も、世の中がゆっくりと変化しているので徐々にずれてくるからだ。このずれを
微妙に舵取りして組織を変化させてゆくのが、「考える社員」なのだ。会社には「考える社員を育てる風土」が必要だ。
期末を目標にヘトヘトになるまで売上を追いかけ、新年度になるとまた増えた計画に向かって走りだす。
セールスも代理店も休む暇がない。勉強と遊びを程よくなんて言おうものなら何処まで遊ぶか分からない、
と睡眠時間以外の全ての時間勉強していなさいと一応言っておく教育ママのような考え方が企業にもある。
物事は呼吸のように吸っては吐き満ちては欠けながら進んでゆくものだが、ビジネス界ではこんなポエティックなことを
言っていたのでは潰れてしまうとばかりに、ひと時も休まず「もっと拡大を、もっと利益を」という強迫観念に満ちている。
しかしこれでは元気が出ず、能率が上がらないし、実際全員がこんなに頑張っている訳でもないだろう。
目標も普通の人間の元気が出るように本音で立てることが大事であり、その途中経過や結果をまた本音で
話し合うことが最も有効な方法であると考える。
宮本武蔵の五輪書に千日の鍛、万日の錬という言葉があるそうだが、企業が立ち上がるのにこの千日、
つまり3年が非常に重要であるという経験を何度かした。すぐに上手くいくことを期待しないで簡単に諦めず、
苦しい時期を耐えることが基礎を創るという体験だ。
童話作家として著名な宮沢賢治は地質学者として3年間、北上川河畔から奥羽山脈の頂上までボーリングステッキという
杖のような道具で土を採取し続け、その結果その大半が泥岩で構成されていることを発見、つまりその後、
童話でイギリス海岸と名づけた北上川が昔は海辺であることを発見したという。そしてこの地道な作業が宮沢賢治の
人格の底辺を作り上げたという話がある。
また、柳田国男が3年間、囚人の過去記録を調べ続け、人間がどんな環境下で犯罪者になっていくのかをつぶさに追体験し、
その後の文化人類学者としての基礎を作ったという話にも共通したものを感じる。
大成した人や企業には必ず草創期の苦しみがあるはずであり、その中でも捨てずに貫いた理念・理想があり、
それがその人や社員達の哲学や風土となってその後の生きる源泉になっていく。順調な成長ばかりを急いではいけないと思う。
仕事上の真剣勝負をして負けた時に実に嫌な気分になったり、負けたにも関らず、すがすがしい気分になったりするのは
どうしてだろうか。同じことを言われて「なるほど」と納得できる人と「ちょっと違うんだな」と
感じてしまう人との差は何なのだろうか。それはその相手に「ホスピタリティー」があるかないかではないかと考える。
仕事は真剣勝負である。勝負しながらも心からその「相手」を大事に思う気持ちがあるかないかで、同じ言葉でも
相手に伝わるニュアンスが全く違ってくるのだ。
短い人生で巡り会う人は例え競争相手であっても縁の深い人である。
どんな人も自分と同じように家族がいて、悩みがあり、幸せになりたいと願っている普通の人間である。
そう思うと、勝負をしながらも爽やかな闘いをして「相手」と質の良い時間を過ごそうと考える。
そしてそれが良い結果を往々にしてもたらすのである。
人生の目的は「良質の時間」を過ごすことではないだろうか。
思い出して楽しかったと心から感じられる時間を縁のある人達と持つことこそが本当の幸せではないだろうか。
思い出して本当に楽しかったと思える時間というのはお互いに真剣に過ごし、感動し、愛し愛された時間ではないだろうか。
そうだとすると「相手」に対してホスピタリティーの無い場面での成功は、
例え成功であっても人生における意味はないとは言えないだろうか。
立派な建前ばかりを言っていると詰まってきてしまう。
「あの人だけは絶対に許せない」これは自分に忠実であっても幸せになりにくい考えだ。
自分だって別の場面で同じようなこともあると思うから、まぁ仕方ないか・・・こう思える人は幸せであると同時に、
人も集まって来て大きな可能性が出てくるのではないだろうか。
ある人が「広大なる心理空間」という言葉を祝詞で使っていたのを耳にしたことがある。
時間は有限であり誰にとっても共通の最も貴重な財産であると言える。
その中で誰のために時間を割くかということは重要なことである。
時間がどうしても取れない時、ある人の事を頭で思い描けばそれは会った事に近いのではないかと感じることがある。
それもその人を懐かしむように、応援する気持ちで想えば何らかの形で思いは伝わるような気がする。
心の中に何人の人が時に喜びの、時に泣かんばかりの瑞々しい表情で生きているか・・・沢山の人が棲んでいる心、
広大なる心理空間というのは素敵な言葉である。
ドッグイヤーでさえのんびりしすぎ、今やラットイヤーだと言われる超スピード時代に、「タートルイヤー=亀の歩み」を
スタイルとして標榜し、10年経っても生き残る本物の商品をじっくり作り上げたいと思う気持ちが確かにある。
「タートルイヤー」と「ラットイヤー」これは明らかに相矛盾するように見える。しかし、私達はどちらかを選ぶという姿勢を
とるべきではないのだろう。スピードの良さ、ゆっくりの良さ、ともに本当である。
「今この時に燃焼しながらじっくりと本物を作っていく」ということは決して矛盾することではない。
何か一つのことが起こってきたら逆を考えてみる。すると、必ず両方に意味があるように見えてくる。
個人の自由とチームワーク。貫き通す愚直さと時代に適合する柔軟性。確立された自己とホスピタリティー。
厳しさと優しさ。光に照らされた成果と影の地道な努力・・・。
これら相反するように見える二つを思い並び立たせようとするところに新しい境地が生まれる。
しかし、考えているだけでは難しい。
相反する二つを心の中に抱き込むためにはじっとしていずに走るのが良い。自転車に乗っていて右にも左にも倒れないための
最上の方法は、自転車を走らせれば良いのと同じことである。
風を切って走る・・・相反する左右の景色を抱きかかえながら
走っていく自転車には道が険しくても楽しさがある。
私達の目指す所はこのように人が深まり走ることだ。
写真はバラバラに切ってしまうともうお終いだがレーザーによるホログラムというのはバラバラにしても部分に
全体情報が入っているので部分からまた全体を再現できるという話を聞いた
ことがある。人の心、脳の中にはホログラムと同じように全体情報が入っていると感じる。宇宙の意志、生物の進化の歴史、
そして使っていない半分以上の脳細胞の中に未来を切り開く力、これらがどんな人にも備わっているのだと思う。
だから最後は自分の心に問うということをすればいい。人を頼らず、人の目を気にせず、自分の心に注意深く問い尋ね、
自分で間違っていると知っていることをやってしまう心と闘い、心の奥底にある本当の答えを探し、これに従って自分に誇れる、
自然な一日一日を送る、貧しくても、病んでいても、何が何でも、突き抜ける蒼空はこうしてこそ見えるのだと思う。